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031_E.Oさん 私の人生は歌の旅

*生い立ち
私の本名は林惠娜(りんけいな)です。父は台湾人で、母は日本と中国のハーフです。台湾の高雄で生まれ育ち、日本人と結婚して、小田惠娜となりました。
クリスチャンホームだった私は教会の幼稚園に通い、毎週教会の日曜学校にも出席するうちにたくさんの讃美歌を覚えました。歌が大好きで小学校の時、高雄市主催の「歌唱コンクール」で一位になりました。また高雄市児童合唱団の第一期生として入団し、数々の世界名曲を練習することで、歌の基礎を学び、それと同時に歌う楽しさ、素晴らしさを体験しました。家にレコードがあり、デル・モナコの「星は光りぬ」を聴いて、オペラに憧れを持ちました。ここに私の歌の旅の原点があると確信しています。
母は私に日本の教育を受けさせ、特に音楽を勉強させたい一心で、中学の時に日本に連れて来ました。言葉の壁を乗り越えて、私は武蔵野音楽大学の声楽科に入学できました。

*夢に向かって
大学で良い先生に巡り合えず、歌は思うように伸びないまま、ずっと悩んでいました。それでも卒業した頃、音大の友人とグループを組んで地方巡業をしました。
私は中国語が出来ますので、一時通訳の仕事をして、天安門事件の時は丁度北京におりました。その年に結婚をして、子供が生まれてからは子育てに専念しました。しかし、歌への熱い思いを断ち切ることはできませんでした。「リジョイス」という女声コーラスを立ち上げて、今も続いています。また十数年前小林久美恵恩師に出会い、それまでの発声法を変え、本格的にオペラの研鑽を積み、自分の歌声が周囲からよい評価を受けるようになりました。
2008年、日暮里サニーホールでオペラ「カヴァレリア・ルスティカーナ」の主役を務めました。
2009年4月、中原市民館ホールで「第一回リサイタル」を開き、11月、私の歌の旅の原点である故郷・台湾の高雄の母教会で呉先生とのジョイントリサイタルを開きました。

*日本と台湾の架け橋
2011年4月、中原市民館ホールでの「日台親善コンサート」を企画し、準備をしている最中に東日本大震災が起こりました。その影響で呉先生と高雄ママさんコーラスの団員が来日できなくなり、一時はコンサートの中止を考えましたが、「あなたは台湾出身だから、日台親善は成立し、この非常時だからこそ私たちにできることをやりましょう」と、周りの声に勇気づけられ、入場料や収益金をすべて義援金として「第一回日台親善コンサート」を開催しました。余震と原発の不安が続く中、ナルクの仲間をはじめ、たくさんの方々の応援を頂き、会場はほぼ満席でした。呉先生及び高雄ママさんコーラスの何人もの方は一か月の給料を全額義援金として寄付したそうです。

*東日本大震災のボランテイア活動を通して感じた自分の役割
コンサート終了後の5月の連休、ナルクのお誘いで、仙台の被災地見舞いと被災した介護施設の支援ボランテイア活動に参加しました。津波で何もかも無くしてしまった方々が悲しみを堪えて、前を見つめて歩んでらっしゃる姿を目の当たりにして、私はこれからも歌を通して東北の方々に寄り添い、更に自分の本分である歌をしっかりやり続けようと改めて決意しました。
2011年8月、さくらホールでオペラ「道化師」の主役を務めました。
2012年5月、ナルク川崎の後援を得て、「第2回日台親善コンサート」を中原市民館ホールで開催しました。台湾から呉先生が共演して頂き、とても盛会で好評でした。
2014年4月、「第3回日台親善コンサート」を同じく中原市民館ホールで開催し、台湾から呉先生と一番弟子の唐氏、日本側は私・小田惠娜と恩師小林久美恵の師弟コンビによる共演で、この時も盛会で好評をいただきました。本番当日の模様をCDにして、仙台でのナルク設立20周年の記念パーテイで100枚を完売し、全額前回同様パラソル喫茶に寄付させていただきました。私はパーディ会場でも歌うことができまして、とても嬉しかったです。

*夢の実現

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